広渡清吾・浅倉むつ子・今村与一編『日本社会と市民法学―清水誠先生追悼論集』(日本評論社、2013年)
目次
清水誠先生追悼論集『日本社会と市民法学』の刊行について
清水先生は、たいへん筆まめな方であった。 本書に寄せられた実に多様な分野に及ぶ諸論考の執筆者46名に対し、先生が、十数年前の古稀記念論集刊行後のように、例によって一人ひとりに書簡をしたためられたとすれば、それぞれの作品についてどのような感想を述べられただろうか。これは、来栖三郎先生の流儀に倣ったらしく、圧倒的な存在感を示す扉の遺影を仰ぐたび、まんざらありえなくもないそんな想像をめぐらしながら、刊行間もない本書を繙いてみた。
編者のひとりとしてその編集過程に携わる栄誉に浴したうえ、執筆者のひとりでもある以上、自己満足の弁は慎むべきであろう。ただ、冒頭を飾る江藤論文からしんがりに立つ広渡論文に至るまで、全編を通じて共鳴し合うのは、急逝された先生への追慕の念であり、各作品に漲っているのは、その遺志を継ごうとする強い決意のほどである。
正直に告白すれば、先生が「市民法」の見地を強調されればされるほど、少し「市民法論」への見方が冷めてしまうこともないではなかった。明快にその効用を示されているのだから、さりげなく“種明かし”をしない方が先生らしくはないですか。三度「市民法の劣化現象」を憂える文章を物されながら、担保・執行法改正(2003年)については、同種の立法現象とは見られなかったのでしょうか。このような不躾な疑問を呈する機会はともかく、日の当たらない私たちの研究の最大の理解者であり、終始一貫して心強い支持者でもあった先生を失い、正直に日頃の感謝の気持ちをお伝えする機会すら永遠に得られなくなったことが残念でならない。
自己の「市民法学」を構築すべく、最後の最後まで渾身の力を注いでいた先生、その労をねぎらう意味でも、こうお誘いすべきであったろうか。「先生、丘の向こうまで行ってみませんか。もう少し見晴らしのよいところがあるかもしれません。」本書が、清水先生の大切にされていた視点を再確認し、さらに今世紀日本社会の行く末を見通す新たな視点を獲得するための豊潤な思索の機会とならんことを切に願う。
2013年8月28日 今村与一